2015年7月28日火曜日

<最近の活動>
2015年
8月26日(水)「安全保障法案に反対する学者の会」の呼びかけによる「100大学有志の共同行動」に一橋大学有志の会も参加しました。当日は、全国から87大学253人の学者が共同記者会見に参加しました。その様子は、こちらをご覧ください。その後、参加メンバーは参議院議員会館に向かい、直接、議員への面会を申し入れ、法案廃案の要請をし声明集を手渡ししました。また、弁護士会館に場所を移し、日弁連とも合同記者会見を行いました、そのときの様子は、こちらをご覧ください。記者会見後は、日比谷野音の集会に参加し、パレードに参加しました。

8月30日(日)「国会10万人・全国100万人大行動」に参加しました。主催者発表によると12万人が集った歴史的な抗議集会となりましたが、有志の会に参加している同僚、院生、卒業生、たくさんのみなさんに会いました。

9月6日(日) 新宿伊勢丹前の歩行者天国で、「学生と学者の共同街宣行動」を行いました。学者の会メンバー、SEALDsのメンバーと一緒に活動しました。

2016年
6月1日(水)教職員組合、学生団体と一緒に学内にて「日本の民主主義の今、を考える」学内集会を開催。同日、国立選管の方を招いて、18歳選挙権の意義に関する出張授業を開催。




安全保障関連法案に反対する一橋大学有志の声明


 日本の敗戦から70年目にあたる今年は、あらためて、民主主義の重要性を確認するとともに、侵略戦争と植民地主義の歴史を省察し、アジア平和外交と人権が尊重される社会を築く責任を深く自覚し、それを果たすために尽力すべき大切な年だといえます。しかし、現実の政治は、おなじ「平和」という言葉を用いながらも、本来あるべきその姿とは逆行しています。その最たるものが、安倍内閣が閣議決定し、今国会に提出した「国際平和支援法」「平和安全法制整備法」の安全保障関連法案です。
 安全保障関連法案は、従来の政府解釈においても、日本国憲法第9条に照らして違憲とされてきた、集団的自衛権の行使を認め、自衛隊による海外での武力行使へと途をひらくものです。武力は、これまでも多く「平和」を旗標に行使されてきましたが、絶えざる紛争や報復の連鎖は、武力行使が真の平和をもたらす手段たり得ないことを物語っています。武力行使は、それがたとえ「平和」を掲げるものであっても、決して容認されるべきではありません。
かかる陥穽は、それを見抜いた専門家や地方議会や市民などによって指摘され、警鐘が鳴らされてきました。そして、多くの人びとのあいだに法案に対する不信や反対の声が高まり、安倍首相自身が「国民の理解が進んでいない」と認めざるを得ない情況となりました。しかしながら、国会で与党が多数を占めていることを背景に、強引に審議が進められ、衆議院において強行採決がおこなわれたのです。こうした手法は、民主主義の根幹を揺るがすものとして、断じて看過できません。
 また、昨今国立大学法人をはじめとした日本の大学で進みつつある、人文・社会科学の整理・縮小や、日の丸・君が代の取り扱いをめぐる「適切」な判断の要請といった、大学における学問研究の自由や、自治を脅かす施策は、民主主義の危機という意味で、安全保障関連法案とも通底します。顧みれば、アジア太平洋戦争下に東京商科大学として存在していた一橋大学は、文科系学生の徴兵猶予の撤廃にともなって多くの学生を戦地に送りだしたのみならず、文科系大学を整理する施策のもと、工業経営専門部の設置や東京産業大学への改称といったかたちで、戦時体制に組みこまれていった歴史をもっています。一橋大学のみならず、戦時下に多かれ少なかれ戦争遂行に加担した大学や学問研究は、戦後、それに対する反省を踏まえて再出発しました。こうした大学や学問研究の歩みを、今こそ想起すべきです。
 以上のように、安倍政権が目指す方向性は、立憲主義・平和主義・民主主義、そしてそれらと密接に関わる大学や学問研究の歩みを根底から覆すものに他なりません。私たち一橋大学関係の有志一同は、ここに、安全保障関連法案に強く反対する意思を表明します。

2015726

呼びかけ人(各研究科50音順)

商学研究科:越智博美、河野真太郎、佐藤郁哉、米倉誠一郎 

経済学研究科:石倉雅男、今村和宏、高柳友彦、寺西俊一、福田泰雄、山下英俊 

法学研究科:阪口正二郎、只野雅人、長塚真琴、森千香子 

社会学研究科:秋山晋吾、石居人也、伊藤るり、大河内泰樹、加藤圭木、貴堂嘉之、木村元、木本喜美子、坂元ひろ子、佐藤仁史、平子友長、高須裕彦、中野聡、中野知律、阪西紀子、森村敏己、山田哲也、吉田裕、若尾政希、渡辺尚志 

言語社会研究科:井上間従文、鵜飼哲、小岩信治、中井亜佐子、中山徹 

 
一橋大学教職員組合
院生自治会有志

<呼びかけ人メッセージ>

今回呼びかけ人として有志の会を立ち上げたのは、
政治に抗う学問の力をいまこそ発揮すべきと考えたから。
一橋大学は、教職員、院生・学生、卒業生含めて、みんながその力を持っているはず。

思い返せば、大学で研究者を目指し始めた頃から、
私は、権力におもねる御用学者のえせ学問を軽蔑してきた。
以来、今日まで政治家が学問を権力の道具とみなす構図は変わらず、
「有識者」なる人々の増殖はとまらなかった。

政治とは究極的には説得力であり、学問もまた、説得力が命である。
私は、国会での質疑を軽視し、対話を拒否する安倍政権の「独裁」を軽蔑する。
首相は法案のまともな説明ができず、奇妙なたとえ話を作るのがやっとである。
お友達の「有識者」に語らせても、その言葉に力がないのは当たり前。
同業者として、私は同志社大学学長の公聴会での法案支持の発言を軽蔑する。

私たちが大切にしてきた学問は、不断の対話・応答を通じて鍛えられている。
だからこそ、説得力がある。そんな学問が、政治の下僕であるはずがない。
学問には社会を変える力がある。
大学は、政治や社会の理想を語り合う場、その学知を発信し運動を創造する拠点。
全国の大学有志とともに、いまこそ教職員、学生・院生、卒業生が一緒になって、戦争法案を廃案に追い込むまで、互いの声に耳を傾けあい、対話しながら手を結ぶとき。一緒に政治や社会のあるべき理想を語り、政治を変えましょう。
(社会学研究科教員 貴堂嘉之)

WAR IS PEACE ――ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくる架空の全体主義国家のスローガンですが、安全保障関連法案をめぐる議論のなかで、しばしば引用されています。すぐれた文学作品を読むと、わたしたちは権力者の言葉がいかに欺瞞に満ちたものであるか、見抜くことができるようになります。 
すぐれた文学は、眼に見えないものを見ることを教えてくれます。社会のなかの弱者、少数派、反逆者、声なき者たちの声をすくい上げようとします。詩や小説は今日、明日の生活の糧にはなりませんが、数十年後、数百年後の世界に生き続け、その真価を現わします。
文学研究と教育に携わる者として、わたしは真の意味での民主主義が世界に根づき、世界中のすべての人びとが平和で幸せに暮らせる未来を希求します。研究者、教育者としての良心と信念に基づき、わたしは平和憲法を逸脱する集団的自衛権の容認に反対し、民主主義を踏みにじる衆議院での強行採決に強く抗議します。
(言語社会研究科教員 中井亜佐子)

私が今回の法案に反対なのは、それが即戦争や徴兵制につながるからではなく(それらのための必要条件を整えるものではありますが)、それが現在、私たちの自由を制限しようとする一連の動きの中でももっとも重大なものだからです。民主主義とは多数決ではありません。それは熟議の上での決定の原則です。しかるに現在行われている審議プロセスは、その原則をこれまでにない形で踏みにじるものです。野党の反対意見だけではなく、憲法学者による明確な違憲の指摘、世論調査やデモに表現されている議会外での市民の反対の声、こういったものを無視してひたすらに抽象的な説明で「理解」を求める首相の態度には、空恐ろしいものを感じます。このような熟議の忌避は、国政だけでなくあらゆる水準にはびこっています。それを看過すれば、この国はブレーキを持たぬままに断崖に向けて疾走していくのではないでしょうか。
(商学研究科教員 河野真太郎)

 安保法制について、そして国立大学の人文・社会科学のあり方に関する議論のなかで、私は「専門とは何か」が問われていると思います。大学教員として、とくに学生のみなさんと、この点をよく考えたいと思っています。
 現政権は、長谷部恭男さんの言葉を借りれば、「都合のいいことを言った時は『専門家』、都合の悪いことを言った時は『素人だ』と侮蔑の言葉を投げつけます。」これは、専門を深める厳しさと価値を権力者たちがわかっていないということです。
 レポート1つ書くにしても、卒業論文をまとめるにしても、大学では学生が、小さくても1つの専門の宇宙を探求します。私たち研究者の活動もその延長にあります。人が時間をかけて学んでいくこと、その蓄積によって確立される専門性を軽視することは、学ぶことの否定であり、そのような社会は決して豊かになりません。
 そのような状態がこれ以上続かないことを願いつつ、私は今回の声明に賛同します。
  (言語社会研究科教員 小岩信治)

   現在の状況に対する率直な感想は、「生きて、こんな時代の到来を見ることになろうとは」というものだ。見通しの甘さには、ただただ恥じ入るだけだが、最近の反対運動の広がりや若者の運動の活性化をみていると、戦後の日本社会が育んできた平和主義の根強さを、あらためて感じたりもする。また、個人的には、渡辺治さんの「奮闘」に励まされる思いで、私自身も月4~5回程度の講演会をこなしてきた。正直、疲労困憊気味だが、しぶとく、あきらめることなく、この闘いを続けたい。もちろん、廃案に追いこむまで。   
(社会学研究科教員 吉田裕)

 国会での安全保障法制の法案審議での憲法学者の違憲発言が世の中に大きなインパクトを与えました。与党推薦の学者が違憲を唱えたことが大きかったことはいうまでもないのですが、同時に世の中に訴えたものの一つに、学問が希求する「普遍」の価値ということが重なっていたようにおもいました。世界情勢の変化への対応など、「社会の有用」を根拠とした特殊な状況への対応をいう政権の政治の論理に対して、多くの人に、そこには回収されない自律して存在する立憲主義という「普遍」の論理があることを思い出させ、さらにそれが曲げられることに対する憤りを浮き上がらせたということがあったのではないでしょうか。「社会の有用」が戦争へと導いた歴史が日本の辿った道でもありました。「社会の有用」を重視することが最も大切な「社会の利益(有用)」を失わせたのです。そうしたことのないように「社会の有用」を別の視点でとらえ、それ自体の意味を考えてそれは本当の「社会の有用」なのかを問い直すこと。今はまさにその正念場にあるのではないでしょうか。大学の人文・社会科学の不必要がいわれていますが、これらの諸科学はなによりもその役割を担っているとおもいます。
      (社会学研究科教員 木村元)

戦力の不保持を明記する憲法9条のもとで政府がとってきたのが、自衛権行使を厳しく制限する憲法解釈でした。半世紀以上にもわたり、日本への急迫不正の侵害に対する必要最小限度の実力行使のみが許されるとの解釈がとられてきました。国会で厳しい議論が繰り返される中、そうした一線が守られてきたのです。しかし、今国会で議論されている法案の中身は、従来の政府の憲法9条解釈からもとうてい正当化できないものです。のみならず、意思決定のあり方にも重大な問題があります。自衛権行使の制限は、政策判断としてではなく、最高法規である憲法の解釈としてとられてきたものです。国会の多数党だけで9条を変えることはできないはずです。憲法9条を通じて、その時々の多数党の判断だけでは変えられない憲法という固いルールによって、武力の行使に枠をはめてきたことの意味をあらためて確認しなければなりません。   
(法学研究科教員 只野雅人)

今回の事態が難しいのは、僕を含めて集団的自衛権自体に反対していない人間も多いからです。グローバルな平和構築という観点からすれば集団的自衛権が戦争抑止力が高い可能性があり、一概に「集団的自衛権=戦争法案」とヒステリックな物言いをすることはむしろ稚拙に見えます。しかし、納得できる個別的自衛権との比較がないことが問題です。さらに厄介なのは、今回のプロセスは極めて周到な民主主義的プロセスに則っているように見えることです。任期を2年半も残しながら解散総選挙で掲げられた「アベノミクスの是非を問う」の裏にはちゃんと集団的自衛権の公約もありました。そこで地滑り的大勝利をし、100時間以上の審議時間を費やした法案の可決であれば、一応は民主主義の体裁は整っています。ただし、この法案可決が危険なのは、今回の事態を許すと今後憲法の拡大解釈が無限に進む可能性があることです。これは本当に危険です。したがって、今回の巧妙な法案には反対しなければならないのです。そして、齢を喰ってもLove & Peaceです。
(商学研究科教員 米倉誠一郎)


アベノ政治は違憲安保法案・沖縄辺野古基地建設強行・国立大人文系つぶしという三本矢において日本戦後史上に突出する。自民党副総裁氏曰く、これまでも安保・自衛隊・PKO等で学者や国民の理解をよく得られたことはなく、政治家が責任をもって国民の安全を守ってきたので今回もそうするのだ、と。限定的ながら安全が守られたのは「政治家の貧困」国でも憲法九条のしばりがあったから、なのに大国中国への無謀な対抗を煽り立ててなにが安全?対中国で沖縄をさらに軍事基地化しようと、侵略戦争も沖縄戦もどこを犠牲にしたのか忘れたらしい。人文学で歴史認識・批判力を養われたくないわけだ。でたらめ新国立競技場案はひっこめたが、森元首相はたった二千億円余なのに、と。日本が毎年、在日米軍に支払う「思いやり予算」は同程度、なるほど大したことない。あっ「輝く女性」政策、日中戦争時から平塚らいてうも加わった女性の銃後運動「輝ク部隊」があった! これもご用心。   
(社会学研究科教員 坂元ひろ子)


戦前の一橋大学は戦時体制に批判的な研究者を休職処分にし、校舎を軍需工場として提供するなど、戦争に協力してきた歴史を持っています。戦後、一橋大学はこうした歴史を反省し、政治権力に影響されず自由に研究・教育を行なう学問環境を構築するため、教員・職員・学生の三者が対等な立場で大学自治を行なう民主主義的な「三者構成自治」体制を整えました。この理念のもと、私たち一橋大学院生自治会は、戦後日本が目指した平和と民主主義への関心が院生の間で喚起されるよう呼びかけ、こうした問題に取り組む院生が活発に活動できる学内環境の発展と維持に努めてきました。
安倍政権が進めようとする安全保障関連法案、そして民主主義的なプロセスを軽視した強行採決は、私たちが、そして戦後日本が目指してきた重要な理念である平和と民主主義とは完全に逆行するものであり、決して看過することはできません。以上の点から一橋大学院生自治会有志は、安全保障関連法案の強行採決に強く反対します。
(一橋大学 院生自治会有志)

 今、国会では安保法制の制度化が押し進められ、日本は戦争ができる国になろうとしている。そのような国になったとき、大学はどのように位置づけられるだろうか。戦略的な駆け引きの在り方や群集心理を効果的に統制する方法の研究に力を入れるのだろうか。それとも、必要とあらば武力行使を厭わない人材育成に力を入れるのだろうか。

 人文・社会科学が、一般的には無駄な学問であるかのように喧伝され始めた中で、今後は、「役に立つ」研究・教育であるかどうかが一層重視されるようになる可能性がある。そうしたときに、戦争に貢献することが「役に立つ」ことの一つの指標にならないと言い切れるだろうか。現在の大学は効率と成果主義にがんじがらめにされている。戦争への貢献を求められた大学人は、率先してその「役に立つ」研究・教育にまい進していくことすら考えられる。大学の自治がますます弱体化させられていくなかで、こうしたことが起こらないと断言することは難しいように思える。

 今できることは、平和と民主主義、学問の自由と大学の自治を守るため、一人でも多くの大学人が声を上げることではないか。
   (一橋大学教職員組合)

 わたしは、いわゆる「平和国家」を「守る」という立場に無条件では立てません。戦後、日本が沖縄の米軍占領を認め、復帰後も基地を集中させ、現在も辺野古の新基地建設が進められていることを考えると、過去70年の「平和」を「守る」というだけではおそらく不十分だからです。集団的自衛権が認められれば、「戦争に巻き込まれる」といういい方にも居心地の悪さを覚えます。それは沖縄の基地周辺の人びとがずっと指摘しつづけてきたことですが、わたしたちはそれをどれほど真剣に受け止めてきただろうかと自問せずにはいられません。
 わたしが今回の法案について深く怖れるのは、それが認められれば、この国の実業界が大手を振って軍事産業を拡大させ、政治家がそれを経済活性化の「起爆剤」とし、戦争と軍事産業を前提とし、9条を裏切る「平和」が、これまで以上に、当然のこととされていくことです。いうまでもなく、学問の自由は根底的に脅かされることになります。
 いま、その一歩手前でわたしたちは踏みとどまっています。大学の研究と教育に携わる者として、この法案には徹底的に反対します。
(社会学研究科教員 伊藤るり)

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